水上勉

みょうがは、私にとって、夏の野菜としては、勲章をやりたいような存在だが読者はどう思うか。こんなに、自己を頑固に守りとおして、黙って、滋味を一身にひきうけている野菜をしらない。 すべて品物を調理し支度するにあたって、凡庸人の眼で眺めていてはならない。凡庸人の心で考えてはならない。一本の草をとりあげて一大寺院を建立し、一微塵のようなものの中にも立ち入って仏の大説法をせにゃならぬ。たとえ、粗末な菜っぱ汁を作るときだって、いやがったり、粗末にしたりしちゃならぬ。たとえ、牛乳入りの上等な料理をつくる時に大喜びなどしてはならない。そんなことではずんだりする心を押さえるべきである。何ものにも、執着していてはならぬ。どうして、一体粗末なものをいやがる法があるのか。粗末なものでもなまけることなく、上等になるように努力すればいいではないか。ゆめゆめ品物のよしわるしにとらわれて心をうごかしてはならぬ。物によって心をかえ、人によってことばを改めるのは、道心あるもののすることではない。 「修行の上からいっても時ならぬものを出すことは、宜しくない。その時々の季節、いわゆる『しゅん』のものを自由自在に調理できなければ一人前の料理人とはいえない。ご馳走という字は、はせ、はしると書いてある。だから寺の境内中、あちらへ走り、こちらへ走りすると、いろいろなものが目につくものだ。また、境内を歩かなくても、家の中、勝手もとをずっと歩けば、いろいろなものが目につく。草でもよし、果物でもよし、あるいはそこらにある菓子でもよい」 よくわかることばである。馳走の字の意味がここではじめてわかったが、禅者は、スーパーへは走らず、寺内の畑へ走ったのである。また走らなくても、台所の隅に寝ているものが見えていたのである。極意のことばのように思う。